よろしい、ならば戦争だ

朝の出来事だった。
駅の改札口で大学生らしき男と会社員風の男が同時に改札の入り口でぶつかった。
その後お互いに押し合い圧し合いして競り勝ったのは大学生で、負けた腹いせに
会社員は後ろからキック。大学生は勝った優越感か、これ以上相手はしていられないと
思ったのか無視して歩き去ってゆく。。。
 
なんだこれは、と思うと同時にどこかで見たような既視感が。ああ、これは戦争を
ミクロで見たらこうなるんだなと思った。つい10秒くらいの前の出来事でしかないのに、
もうどちらから押したのかすら分からない。お互いに憎しみをぶつけあってついには
兵器(蹴り)まで持ち出してしまう。そして周りの人間は自分には関係ないとばかりに無関心に
通り過ぎていく。各地で起きている民族紛争と遠く離れた場所(日本など)の人間状況と
似ていないだろうか。お互いに譲る気配は全くない。少しでも譲歩する姿勢があれば
こんなことにはならないのに。。。自分は真後ろで呆然と成り行きを見ていた。ぶつかってから
蹴りを入れて喧嘩別れするまで10秒にも満たない間の出来事だったが、その数秒は
永遠にも感じられた。日本ですらこんな状況なのだから、他国で戦争が無くなる訳はないな。
 
戦争を回避する唯一の方法は、お互いがお互いを尊重することのみ。このケースでは
競り合いが発生した時点でお互いに「倒すべき敵」と認識してしまい、もうそれしか見えていない。
どんな時でも一歩引いて自分自身を上から俯瞰してみることが必要なのではないだろうか?
 
そもそも、何故人は相手を憎いと感じるのだろう?常に自分が優位に立ちたいからだろうか。
なぜ譲歩できないのだろう?負けを認めたことになるから気に入らないのだろうか。
譲れないと思い込んでる信条の裏には、必ず核となる原因がある。そこまで踏み込んだ上で
本当にそれが必要なのかを自分に問いかけてみると、実は大したことではないことが多い。
それらを踏み潰していくと細かいことは気にならなくなってくる。器が大きいとはそういうもの
なのだと思う。それは相手を対等な存在として認めることであり、赦すことでもある。